僕は、いまの活動や労働のその先に見据えている社会像の一つに「誰かがやらなければならない仕事を自ら引き受け全うする人への敬意が正当に支払われる社会」を掲げています。
僕が大学卒業後に介護の道に進もうと考えた理由の一つは、その「社会」を実現するためには自分も現場に立つ必要があると思い至ったからです。ここではその思考の過程を書き連ねていこうと思います。
誰かがやらなければならない仕事としての「介護」
私の両親は離婚しています。私は一人っ子で、父と母それぞれと今も良好な関係です。
このご時世だとよくある家庭でしょう。これは不遇な環境アピールではありません。とはいえ、子ども心に「誰が両親の介護をするの?」という将来の課題には怯えていました。両親が支え合う老後は期待できない。さらに頼れる兄弟も若い親戚もいないとなると自分がやるか誰かにやってもらわなければいけない。でも自分がやるのは限界があるだろうから、頑張ってお金を稼げる仕事に就いていつでもヘルパーさんに来てもらえるようにしよう。正直、そんなことを考えていました。
時は過ぎ、大学在学中には社会の構造について考えることが多くなりました。例えば「介護の社会化」について。理念は崇高だし恩恵も実際にあった一方で、現行制度に歪みがあることもまた妥当だといえるでしょう。しかし、いざ改革をしていこうと合意をしても、その方針をめぐる足並みを揃えることは簡単ではなさそうです。多く語られる「介護従事者の低賃金問題」と「現役世代にとっての社会保険料の負担が大きい問題」の二大テーマでさえ、費用負担の面で矛盾を孕むように感じられるからです。
さて、ここで強調したいことは「何も変わらないままでは現場の人間がしわ寄せを被り続ける」ということです。しわ寄せとはこの文脈では低賃金であったり、人手不足であったりします。また、「嫌なら転職して業界を変えれば良い」という指摘も当たりません。いまは個人の部分最適ではなく社会の構造の話をしているのですから。誰かが座らなければいけないイスがあって、そこに座って役割を全うしてくれている人がいて社会が成り立っているのだと強く感じ、そのような人たちに対する敬意が生まれました。
そうなると、今までの自分の考え(=「頑張ってお金を稼げる仕事に就いていつでもヘルパーさんに来てもらえるようにしよう」)が果たして正当なのかという問いが生じます。社会の中で役割分担することが世の理だとしても、自分がやりたくない仕事を代わりに引き受けてくれる誰かに対して支払われる対価が少ないことを認識しながら、なおその構造に「乗っかる」選択は、現状を肯定していることになるのではないか。悩んだ末、将来的に自分がどんな選択を取るとしても、まずすべきことは自分の足で現場に立ち、自分の目で課題を見つめて、自分の頭で考えることだと、この問いに対して回答しました。
ただし、現場を経験した人間しか問題を語る資格がないと考えているわけではありません。虫の眼も鳥の眼も必要だということを、ここですかさず補う必要があります。