「子どもの寺子屋」と「ボードゲーム会」に込めた思い

幸市民館 IDOBATA SPACE での「子どもの寺子屋&ボードゲーム会」は多くの地域の方々のおかげで開催を続けることができています。また、ありがたいことに、活動を続けていくうちに地元のイベントや他地域の方からお声をかけてもらうことが増えてきました。

そこで、僕が「子どもの寺子屋&ボードゲーム会」を始めたきっかけや込めた思いをここで言葉にしてまとめさせていただきます。

僕にとってこのイベントが目指すものはもちろん来てくれる子どもたちにとって楽しいと感じてもらえる場になることですが、同時に、活動を続けていくなかで知り合った方々に思いを語ることも大事にしています。そうして信頼を得て、賛同や応援をしてくださる方が増えていけば、少しでも目指したい社会のあり方に近づいていくことができるかもしれないからです。

「ボードゲーム会」に込めた思い

きっかけ:幼少期の経験

一人っ子かつ両親が不仲で頻繁に喧嘩をして寂しい思いをする1なか、叔父さんが「遊戯王」というカードゲームを一緒に遊んでくれました。僕のために時間を割いて、面と向かって対等に遊んでくれる大人の存在は本当にありがたくて救いでした。このときの幸福な感情は大人になった今でもいつでも思い返して包まれることができるくらい、ずっと心の拠り所となっています。

そこで、大人になった僕が今度は叔父さんのような存在になりたいとボードゲーム会を企画しました。ただし、「居場所づくり」と掲げるつもりはありません。あくまで、子どもも大人も一緒にボードゲームを遊んで楽しむ場、です。というのも、大人が子どもに「してあげている」構図を見透かし、良く思わない子どもは少なくないと考えるからです。

だから、僕は僕が楽しいと思うゲームを持って行って本気で遊んで楽しみます。遊びの良いところは自分が楽しむことと相手が楽しむことが簡単に両立することです。各々の仕方でゲームを楽しみ、その結果として誰かひとりでも参加してくれた子どもの寂しさが紛れることがあれば、願ってもないことです。

公平に楽しめる遊びを

ところで、幼少期に遊んだカードゲームではなくボードゲームを用いたイベントを開催しているのには理由があります。ボードゲームではプレイヤーの資金力を考えなくて良いからです。

「遊戯王」のようなトレーディングカードゲームでは、子どものうちはおこづかいの差が所持カードの量や質の差となってしまいます。高価ならば強力であるとは限らないもののやはり強力なカードは比較的高価な傾向がありますし、同じ効果を持つカードでも「レア度」の差があれば、子どもならなおさら資金力の差を感じ取り、惨めな思いをしてしまうかもしれません。これは中高生の僕の実体験でもあります。

一方、ボードゲームはそうではありません。一つのボードゲームで複数人が遊ぶのですから、少なくともスタート地点は一緒です。そして、これは僕が目指す社会のあり方にも通ずる大切なポイントです。

魅力が詰まっている

僕はボードゲームを通して教育的効果を狙っているわけではありません。先に述べた通り、遊んで楽しむことが第一で、ついでにプラスの効果が生まれたとしたらラッキーという姿勢はこれからも変わらないでしょう。

それでもボードゲーム会を開催していると、狙っているわけではないけれど良いなぁと思う光景に何度も遭遇します。例えば、初めてプレイして気に入ったゲームのルールをまだ知らない他の子どもたちに伝え、いっしょに遊び始めるといった場面。その日に知り合った子どうしが教え合ってテーブルを囲む様子を見ると、頼もしくなります。

また、ボードゲームはたくさんの種類があり、一人ひとりにとってお気に入りのゲームが見つかりやすいことも嬉しいですね。運が関係なく純粋に実力だけで勝負が決まるもの、みんだで協力して同じミッションのクリアを目指すもの、言葉遊びをするもの、記憶力が試されるもの、勝ち負けは重要ではなくみんなでワイワイできるもの。また題材や小道具もさまざまです。ローカルルールを加えて難易度を変えたりすることもできます。なにより、作り手も遊ぶ側も一つのあり方を押し付けられないことそれ自体が、大きな魅力となっています。

「子どもの寺子屋」に込めた思い

格差 

問題意識はやはりこのサイトで何度も触れることになるであろう「格差」です。ここでいう格差は教育に投下されるお金の多寡だけではなく、例えば家庭内に読書をする習慣があるかどうかの文化的なものも含みます。いずれにせよ、生まれた家庭によって受けられる教育や学習に向き合う環境が違うこと、つまり少なくともスタート地点が異なることは望ましくない2と考えています。

「教える」場ではない

「子どもの寺子屋」初開催時のチラシに載せた紹介文は次の通りです。

寺子屋について(2022年5月作成チラシより)

寺子屋と言っても、ただ「教える」場ではありません。

子どもたちにとって、いっしょに遊んだことがある大人やお兄さんお姉さんが勉強している姿が自然と目に入る空間を作りたいと考えています。

だから、寺子屋の時間に運営メンバーは好きな本を読んだり自分の勉強をしています。

その時間、子どもたちは宿題を持ってきていっしょに勉強してもいいし、気に入ったボードゲームがあれば遊びつづけてもOKです。

「教える」場ではなく、「子どもも大人もそれぞれが学ぶ時間を共有する」場こそが僕の目指している「子どもの寺子屋」のコンセプトです。

まず、「教える」ことを目的としてしまうと人手も頻度も足りません。月に一回、それも一人当たり数十分ほどの時間を割いた程度では学習効果も当然薄くなります。それに蓋を開けてみれば教えている大人の自己満足の場になっていた、なんでことは避けなければなりません。

だから、「子どもも大人もそれぞれが学ぶ時間を共有する」という文言を好んで選んでいます。ここで僕がしたいことは、「少なくとも僕は大人になった今でも自分自身が学び続けたいと思っている」というメッセージを発することです。ただ、それを受け取るかどうかはもちろん来てくれた子どもたち次第です。

補足.
  1. きちんと言わなければならないことは、両親が各々の形で僕を愛してくれた感覚はあるということです。大人になったいま両親に感謝できていることと、幼少期の僕が主観的に孤独を感じていたことは両立します。 ↩︎
  2. スタート地点が同じならば、その後で運や能力で差がついたとしてもそれは自己責任であり、是正する必要はないのか、という問いは別の機会に考えることにします。 ↩︎
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